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あ〜〜〜吐きそう🤮🤮🤮
結局ないものねだりって結論にいつもなるんだけど
質量保存の法則かなんだかやっぱりだいたいのもの有限で
それをみんなで奪い合って生きてんだな
風邪みたいなテンションで定期的に感情あれするやつ
いい加減セルフメディケーションしたいけど
季節の変わり目は風邪ひくって昔から決まってる
それでも最近自分でもびっくりするくらい健康だったのに
いい歳してこういうの本当恥ずかしいからやめなって
あ〜〜〜めっちゃ吐きそう
楽になる方法知ってることがいつも唯一の救いだわ
さっさとオーロラ見たい私の人生たのしかったし
大して苦しくないのに私の知らないところで
勝手に苦しい苦しいってなって動悸もやばいし胃も痛い
絶対に風邪
こんなのにいちいち苦しむのばかみたいでつらい
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結果だけ見て明らかにマイナスな事象を
ポジティブに捉えようとする論法
好きじゃないんだけど
そうでもしないと生きていくのが
しんどくなるような年だったから
2020年だけはゆるそうかな
少し前までは生きている理由がないから
もう死んでもいいかなと思う日が続いたけど
そう思わなくなった時に
生きる理由が死ぬ理由になり得ることに
気付いたわとりあえず
生きている以上常に死と隣り合わせだから
大切なものを大切にしないといけないな
自分より苦しんでる人がいるから
苦しいこと言えないのっておかしい
誰かの苦しみなんて自分には関係ないのに
本質的に比べられないのに
苦しいときは苦しいって言っていいんだよ
って伝えたいけど伝える手段がない
誰かを悪者にしないと心の安寧保てない時点で
得られているのは安寧じゃない気がするけど
そうでもしないとやってられないよな
私が大事に思ってる人達に
はやく春の日がきますように
疑問
著名な方の訃報のニュースが相次いで、たくさんの人が自殺についていろいろなコメントをしている中、「ひとりで悩まないで相談して」とか「SOSを見逃しちゃいけない」「死にたいと思わないような環境を作らなきゃいけない」とかそういう言葉を見るたびにいつも「自分で死を選ぶことがそんなに悪なのか?」「なんで死んでほしくないと思う他人のために生きていかなきゃいけないのか?」とシンプルに疑問に感じてモヤモヤする。
もちろんよくメディアで見かけていた人や好きな芸能人が自殺したと聞いたらショッキングだしなんとなく心は沈むし確かに喜ばしいと思えるニュースではないかもしれないけど、当事者が悩んで悩んでそれこそ死ぬほど悩んで下した結論をみんなでよってたかって否定して、正しさなんてわからないはずなのに、当人の気持ちなんて絶対にわからないはずなのに、よくそんなことが言えるなと思ったりもする。きっと本人の中では善意のようなものしかなくてそれがかえって誰かの心を傷つけているかもしれないなんて微塵も思わないんだろうなとも。
相手のことを思っているようで「死んでほしくなかった」と思っているのは自分であって「死にたかった」当人の気持ちは置いてけぼりな気がして、なんだかとても私が今まですごく嫌悪感を抱いていた「相手のためを思ったフリをしたエゴイズム」みたいなものを感じて、こういう話題になるたびにいつもいろいろ考えてしまう。
遠くても近くても大好きな人にはいなくなってほしくないし、そういう人が死のうとしてたらきっと「私は死んでほしくない」と思うしおそらく言うと思うけど、それでも死にたいと言う人を止めることはできないしそんな権利私にはないし、それが悪いともどうしても思えない。だって生まれることもその環境も何も選べないまま放り出されただけなのにそれでもなんとか生きてきてやめたい時にやめることも許されないなんて残酷すぎる。
「死んでほしくない」と思うのはその人の感情だし自由だけど何の責任もとれないくせに「死なないで」とか「生きて」とか無責任に相手に要求するのは何かおかしいといつも感じてしまう。
あなたが生きたい世界と私が生きたい世界は違って、あなたが善と思うことが私には悪かもしれないし、私が死にたいと思いながら毎日生きていた頃、人から「死なないで」と言われるたびに、そう言ってくれることがとてもありがたいこととはわかっていても無責任なこと言わないでと正直思ってしまっていたし、こんな世界で他人に生きてほしいと言えるほどこの人は幸せな人生を歩んでるんだなと思ったら嫉妬というか羨望のような感情がわいてさらにしんどくなったりもした。
自ら命を絶つことは良いことではないかもしれないけどそんなに悪いことともどうしても思えなくて、この手の話題が出るたびに私は世間とのズレみたいなものを感じて形容しがたい気持ちにいつもなる。
その決断をするに至ってしまった経緯とか明確な理由があるのならそれをどうにかすることができたのでは?と悔いる気持ちはわかるけど、生きていればいいことがある「かもしれない」くらいのあまりにも不確かな未来のために死にたい今日を毎日続けることを強制するなんてそんなことできない。
死にたいという思いが成就してよかったね、今までがんばってきてえらかったね、もうがんばらなくていいからね、お疲れ様でした
余裕綽綽
そうに見える人でも案外突然ひとりで死にたくなったりしてるのかな
「悩みがなくなったことがない」「幸せと感じても同時にそれがしんどくなって手放しに幸せを得られない」というようなことを前人に言ったら理解してもらえなくて、他人に理解してもらえなくても少なくとも自分はそれを否定せず受け入れていくしかないのかなと思う
自分のことでも他人のことでも否定せず認めることってすごく大事だとおもう
認めたり受け入れたりするより否定する方が何倍も簡単だけど理解できないことを否定する人間にはなりたくない
得体の知れない苦しさに襲われたとき自死を阻んだのは別の苦しさで、苦しさに救われる場合もあるんだなとおもう
それが救われたと言うかどうかはきっと視点次第で、今はそうおもうけど当時はむしろ絶望に思えて、遂行できてた方が救われているという考え方もあるとおもう
決して喜ばしいことではないのは確かだけど私はその選択を否定したくないし認めていきたいなあ
空っぽ
ここのところ続いた外出制限のようなもので人との接触が極端に減り家でひとりぼっちになったとき、自分って空っぽだなあとふと思った。いつからこんな風になったのか、元から空っぽだったのか?でも昔に比べたら随分今は幸せだと感じるし、案外それが(今の私にとっての)幸せだったりするのかもしれない。そんな気もしてきた。期待したり失ったりすることがこわくて、何も持たないようにしてきた結果が今なのかもしれない。
正直なところ私にはそんな大層な正義感もなければ人徳のようなものもなく、一人暮らしで家族に迷惑をかけたりということもないので、いわゆるステイホームを絶対にしなくてはいけないと強く思っていたわけではなかったけど、仕事が休みになったりした関係で、そこまで会社がしているのに無闇に出掛けて万が一感染が発覚したりでもしようものなら袋叩きに合うに違いないという思いが私の抑止力になっていた。そのおかげでゴールデンウィークの9連休もほとんど家から出なかったし、模範的なステイホームをしていたと思う。その間はひどく憂鬱で、何もなくて、死なないために生きているだけだった。
緊急事態宣言解除後に勤務体制が概ね元に戻ってからそういった抑止力がなくなって、だんだんと人と会ったり食事をしたりというような約束ができはじめ、自分が思っていた以上に週末の予定が楽しみになっていることに気付いた。私は人と会ったり話したり食事をしたり飲酒したりということにここまで喜びを見出していたことに初めて気付いて、私と会ってくれる友達がたくさんいて良かったと思うと同時に、改めて自分って空っぽだなあと思った。こんなに友達がいて幸せを感じているはずなのに空っぽと感じるのはなんでなんだろう。友達にも失礼な話だ。
ところで、今日お昼頃仕事中にこんなことを漠然と考えてとりあえず文章にしてみようかなと思っていた矢先にそろそろ日記を書きませんか?みたいなアラートメールのようなものがきたから、親に宿題しなさいって言われた時のような感情になった。それでも書いてやった。
今日はいつにも増して抽象的というかまとまりがなく漠然とした話になってしまった。脳内は通常運転だな。
いつか「ステイホーム」だとか「緊急事態宣言」だとか、懐かしい〜〜〜!みたいな感じになるのかな。こんなことが根付かざるを得ない世の中にならないといいけど。
前略プロフィール
ふと思ったけど自分達が中学生とか高校生くらいのときはまだそんなにSNSというものが普及していなくて、同世代でそれに代わるようなものは前略プロフィールが主流だった。
前略プロフィールって基本中高生がこぞってやっていて大人はほとんどやっていなかったように思う。中高生って私の中では一番調子に乗っていたというかすべてを俯瞰できていなかった時期で、今こうやって当時のことを省みることができているからそれは真っ当な成長過程だったのかもしれないけれど、そんな時期に書いたものはいわば黒歴史そのもので、そんなものがワールドワイドウェブ上に公開されていると思うとゾッとする。
とはいえ前略プロフィールは私が高校を卒業するくらいには次第に廃れはじめて、いよいよ何年か前にサービスを終了したみたいだから基本的にはもう見られないはずなので安心なのだけど、そもそも前略プロフィールってツイッターとかインスタグラムみたいなSNSと違って中高生間での一時的なブームで、そこでの絡みに大人が介入してくることはほとんどないに等しかった。検索はできるけど不特定多数の知らない人達に見られる割合っていうのは今のSNSと比べるとおそらくかなり低くて、逆に全く知らない人のページを見に行ったり書き込みしたりなんてこともほとんどなかったし、今ほど気軽に日常を垂れ流すような文化もそこまでなかったように思う。
プロフィールというだけあって個人情報を書く欄もわりとあったし、一応全世界に公開されているのにこの閉鎖的な感覚は今思えばもしかしたら結構危険だったのかもしれないけど、ツイッターとかインスタグラムってかなり不特定多数の他人の目に触れる可能性が高いし、なんならたくさんの人の目に触れることが善しとさえされているのを見ると、自分が中高生の頃SNSがこれほど普及していなくて本当によかったと心底思う。
他の人がどうかは知らないけど、少なくとも中高生のときの自分は今よりもっとネットリテラシーが希薄で、今ほどまわりのことを意識せずにインターネット上にいろいろ載せたりしていたし、それが赤の他人に見られるであろうこととか、見られたらどうなるかとかそこまで深く考えて行動できていなかったと思う。
ある程度分別がつくようになった高校3年生の後期くらいにツイッターをはじめたような気がするけど、もちろん個人情報が特定されるようなものは一切公開していないし、今見てヤバイなというようなことは書いていない(と思う)。
今の子の多くは社会やインターネットというものがよくわからないままツイッターやらインスタグラムをはじめて、そのままいわゆる黒歴史のようなものを世界中に垂れ流していて本当に可哀想だ。それが私と同じように成長過程だと言われたらそうなのかもしれないけど、不特定多数の目に触れて記録や記憶に残っている(かもしれない)という事実は一生消えないのでキツそう。
LINEも今はなくなったら困るくらい日常的なツールになってるし、昔からあったら便利だっただろうなとも思うけど、やっぱり中高生のときに流行ってなくて本当によかったな。
好きな人の着信音変えたり、センター問い合わせ(だっけ?)しまくったり、メールの「Re:」がどんどん増えていって満足したり、みたいな懐古的な趣の部分ももちろんあるけど、もしLINEが普及してたらきっとイジメとまではいかなくてもそういうような悪しきことにも絶対に利用したりされたりしていただろうし、無駄な諍いや心労が増えそうで嫌だ。
そんなことを考えたりして、私は私の生まれた時代に生まれてちょうどよかったなと思うことがしばしばあるんだけど、自分より上の世代や下の世代はどう思っているのか気になる。みんな同じように自分の世代が一番いいと思っているのかな。そうだとしたらそれは平和でとてもいいけど。
深夜に書いた文章は後で読み返すとしんどい
わかってても何か書きたくなるのは深夜のことが多いからたちが悪い
今思えば心身共に不健康で毎日寝る前にこのまま一生目覚めなければいいのにと思っていた大学時代、最終的に朝10時くらいに寝て夕方18時くらいに起きるみたいな生活をしていて、社会人になってからきちんと朝起きて夜寝る生活になったら心身共にものすごく健康になった自覚があり、朝起きてご飯を食べて日光を浴びて夜寝るという当たり前のようなことがいかに大事を思い知ったわけだけど、今このご時世であの地獄のような大学時代の生活に逆戻りしそうでこわい
特に私は部屋に日光が差し込んでくるのがものすごく苦手で(というか部屋が明るいのが苦手で)遮光カーテンを一度も開けたことがないので家を出ないと日光を浴びる機会がなく、かと言って特別外に出る用事もなければステイホームの世の中なのでおとなしくホームでステイしているから、このままだとまた不健康の自殺志願者になりそう
この自殺志願者って表現語弊ありそうというか語弊しかなさそうだけど他になんて言えばいいんだろう?自分を殺したくもないし言うほど志願もしてない、それよりは生きていたくない、生きるのが面倒くさい、生きている理由がない、一生目覚めたくないみたいな感じなんだけど無気力?いつも適切な言葉が見つからない
こういうことを言っていると世間的に真っ当な倫理観の人から説教をくらいがちで、そういう人の言っていることも理解できるし、実際自分の大事な人が亡くなったり自分の余命が幾許かになったり自分の価値観を変えるような何か大きな出来事があったらまた考え方も変わってくるのかもしれないけど、個人的には生死ってもっと当たり前のように人生の選択肢にあればいいのにと思う
無理してまで生きていく理由ってなんだろう?誰もその人の人生に責任を負えないのに他人に生きろって言う資格あるのかな?生きていればいいことがあるのかもしれない、でもそれが生きていくのに値するほどのことなのかはわからないし、そもそもそんなこと一生ないかもしれない
生きてる理由とか幸せって人それぞれだとは思うけど、それに比べて生命維持活動の煩雑さって尋常じゃない
残された人のこと考えてないわけじゃないけど、残された人のことを考えて一生無理して生き続けなきゃいけないの?いつか絶対に死ぬのに?これって屁理屈なのかな?
命を軽視しているつもりも決してないけど、もっと受験したり、就職したり、転職したり、みたいな進路選択の延長線上に死ぬことがあってもいいんじゃないかなと思う
生き方の多様性が認められつつある世の中でもっと死に方についても認められるようになればいいのに
きっと(特に日本においては)社会を維持していくためにそうするのは難しいからそうはならないだろうけど
そうは言いつつも自分の好きな人には死んでほしくないし、死にたいと言われたらやっぱりきっとかなしいし、死なないでってきっと言っちゃう、でもこれは願望であって強制しようとは思わないし、違う考え方の人をどうにかしようとも思わない
今はまだ当時の地獄のような精神状態に陥ってないから、今後どうなるかわからないけどある程度健康なうちに文章を書いておきたい気がしてきた
そもそも私が一番精神状態がいいときはたぶん文章を書こうなんて気が起こらないので便りがないのはいい便りみたいな感じなんだろうというサボる言い訳も最後に書いとこ